おちゃうけ

このブログはてぃーの個人的所感を雑多に記すだけのブログです。

希死念慮

私は生粋の死にたがりストだった。
小学生の時には「死にたい」と口に出すことがあった。次第にファッション死にたがりになり、中学入学後テニスを始めたがミスをするたびに「死にた!」と口をついて出たし自分のせいで負けたとしか思えない試合に心底自分で自分にがっかりしたものだ。
しかし部活を辞める勇気もなければ、なぜか大学生になってまでテニスを続けることになってしまった。
正直テニス自体は好きで、ただ下手くそな自分を試合に出してほしくなかったのだ。
しかしどういうわけか、中学生の時は新設のテニス部で人数もそこまで多くなく普段の部活参加状況によって試合出場が決められたので出場する羽目になり、高校生の時は人数が少なすぎて必然的に試合に出る羽目に。
いつも申し訳なさに死にたがっていた。やめちまえばよかったのに。

ここ数年、死にたいとほぼ言っていないし頭に浮かぶこともほぼない。

きっかけは子どもを産んでからか。
死ねないなとはもちろん思うし、子どもの前で「死にたい」なんてとても言えない。
そしてここ数年、自分が本当に死ぬ時のことを想像しては恐怖する。
命が潰えた時、無に帰すことが本当に怖い。
私は確かに生きていたのに、思考しているのに、この形のない思考すら消えてしまう。

中学生くらいの頃に、ふと、培養槽の中の脳と似たようなことを考えた。
(培養槽の中の脳とは、今こうして実在していると思っている自分やその感覚は全て培養槽の中にある脳に電極を流すなどして感覚を与えられているに過ぎない世界なのかもしれない、という考え)
自分が消えるとはこの培養槽の中の脳に電気を一切流さないどころか、培養槽から放り出されてしまうことに匹敵するのだろうか。
私が考えていたのはもっと抽象的に、思考の塊のようなものがふわふわと浮かんでいる世界。実際にはこの世界には自分1人の思考のみによって考え出された世界であってそもそも何も存在しなかったなど…
死ぬとは、本当に無になるんだろうか、なるのだ。

輪廻転生だの天国だなんだというのは所詮無に帰る恐怖を紛らわす作り話だ。

だいぶ脱線したが無に帰ることを思うと本当に死ぬのが怖いのだ。
死ぬ時は1人とは言うが、本当に1人ただ暗闇に向かっていく、そして自身も闇に呑まれることに他ならない。
こわっ

というわけですっかり死にたがりストを卒業したかと思われていたのだが、たまにやっぱり死にたがる。
痛いのも苦しいのも嫌だし無に帰るのはやっぱり怖いから本当には死にたく無いけど…それでも今死んだ方がこれから先の生の苦しみからは抜け出せるのではないかと思ってしまうかともある。
だが、死ぬ気はない。
死にたいけど。

本当に死にたがっている人には失礼ですが、私はとりあえずまだ死にたくない死にたがりをしていきます。

(精神参ってるのかな…)